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エッセイ148:私のリーダーシップスタイルの原点は、…

 古希を迎えて10か月が過ぎました。人生の最終コーナーを“疾うに回った”と意識するようになったからでしょうか。私の現在のあり様の原点を辿っている機会が、思いのほか増えています。ルイヴィトン スーパーコピー有り体に言えば、“あれがキッカケで今がある”、“今ある原点・出発点はあれだった”ということを、納得の上で整理整頓しておきたいのです。無意識に始まった終活かもしれません。

 5年ほど前から、振り返ることの意義を呟き始めるようになりました。“潜在意識が顕在化された”と思しき感覚が、確信となって頭を駆け巡ることが何度かあったからです。そのいくつかを拾ってみたいと思います。心のあり方はもちろん、仕事のあり方についての呟きもあります。
 「振り返ることは、客観的に自分自身を見つめ直して、その時々の状況や心情を知る旅でもあります。そうすることでその時点での姿の背景が見えてきます。そこから、新たなチャレンジがスタートしていたことも見えてくるのです」、「振り返るプロセスは、自分自身の心の本性を明らかにするきっかけになると思います」、「掘り下げて考えることは、心を耕すことになります。心を耕すことは、自分自身の本性を耕すことでもあります」、「心の田んぼを耕すことは、自己形成そのものです。凝り固まった心、狭まってきた心を解(ほぐ)しては柔らかくして、さらに深く耕します。そうすることで、等身大の正直な自分の姿が見えてきます」、「謙虚に振り返ることで、新たに見えてくることが増えてきました。見えてきたことを素直に認めながら、目の前の諸事と誠実に向き合いたいと考えるようになりました」…… 。
 「振り返ることは、PDCAサイクルでいえば、バレンシアガ スーパーコピーCHECKとACTIONに相当します。さらにスパイラルアップするためには、新たなPLANにつなげる必要性が解ってきました」、「教育機会の中で振り返りの時間をキチンと持つことは、学びの本質を理解する重要なプロセスの一つに思えてきました」……。
 これらの呟きを噛みしめながら、大学時代の部活におけるいくつもの光景が、私の頭の中に投影されています。私の人生の中でも、一二を争うほどモチベーションの高かった、持ち合わせていた心技体の殆どを注ぎ込んだ4年間でした。しかし、注ぎ込んだ心技体の大部分が未熟でひ弱で、言動が不器用で下手くそで、オメガ スーパーコピー肝心なところでは独りよがりが顔を出しては空回りをし、殻に閉じこもってはマイナス思考が目立った4年間だったと思い起こしています。言い出せば切りがない程の欠点・短所が噴き出てきます。入り混じっている目に見える短所と埋没している数少ない長所が、そしてその根底にある貧弱で日和見的な心構えが、その時々の出来事から見えてくるのです。今回のE森は、そんな出来事を中心に振り返ってみようと思います。エッセイ146回では消化不良だった心構えと言動の因果関係を、思いが消え失せないうちに、もっと掘り下げて総括しておきたいのです。その続編、姉妹編になりそうですね。前回同様、現在の皆様方の原点や要因を明らかにするケーススタディとして捉えて頂きましたら嬉しく思います。

私のリーダーシップスタイルの原点は、……

 小中高時代、学級運営でも部活動でも、組織や組織メンバーを支える側にいた私でした。リーダー的役割に就いたことはありません。自主的に志願して立候補することはなく、誰かに推薦されるか指名をされた時に何かの役に就いていました。強いて挙げるとすれば、副○○(副会長、副班長、など)でした。リーダーシップスタイルでいえば、“私について来い”と引っ張っていく機関車タイプでは全くありません。苦労や競争を避けて、結局は、いつも楽な道を選択していたと思います。その原因を探ってみれば、“自信が無い、自信が持てない。どうしようか、どうしよう……?”という具合で、右往左往して決められないことが多かったと思います。気弱で自立心の欠けた私でした。時には“やってみたい”と思うこともありましたが、結局は優柔不断でチャレンジ精神が乏しい傍観者のままでした。エッセイ146回で呟いた通りなのです。
 そんな私が、ほんの少しだけ歩を進めたと思えるのは、大学進学を機に、実家を離れる道を選んだ時でした。少しだけのその進歩は、二つの『じりつ』(自立、自律)です。
 しかし、自立といっても、最初の3か月間は、1人暮らしと都会生活に慣れるだけで精一杯でした。引っ越しを済ませて数日後の初通学前々日のことです。利用する国電(現JR)山手線の満員電車に、一人で乗ることができませんでした。超満員の中をどうやって乗り降りするのか、怖さと異様さで固まってしまいました。数本やり過ごして乗車したものの、大学最寄りの新大久保駅で下車できなかったのです。何とか電車通学できるようになるまで、一週間は要したでしょうか。
 当然のことですが、学内で知り合いはいません。いわゆる標準語で活発に早口で話す方が多く(当時はそう感じました)、戸惑うばかりでした。馴染むまでにかなりの日数を要したと記憶しています。4月中旬、新宿御苑で学生会主催の新入生歓迎会が行われました。終了間際、同じ班の上級生に“同郷の先輩がいるから“と誘われるまま、東京薬科大学合唱団(以下、東薬合唱団)に消極的姿勢で入部しました。音楽は好きでしたから… 。
 5月に入って、新環境に不慣れなまま風邪をこじらせてしまいました。無理して通学したからでしょうか、咳込みが激しくなり肋間神経痛まで患ったのです。一方、本分である授業は真面目に受講し、帰宅後は復習もしました。追いつくのに精一杯でしたが、精神的にはその時間が一番落ち着いてゆったりできました。元来、引っ込み思案の上に、人見知りで人づき合いが苦手な私でしたから、対人関係に気を遣う必要の無い勉学の時間が、マイペースでいられる時だったと思います。
 慣れない一人暮らしも、気がつけば夏休みに入りました。合唱団夏合宿(8月下旬)までの1か月半は、盛岡の実家に帰省しました。初めての夏合宿でも対人関係を煩わしく感じて、退部しようと考えたこともありましたね。退部しなかったのは、“譜読みが正確で速かったこと”、“そのことが上級生から認められて、一目置かれるようになっていたこと”で、なかなか切り出せなかったのです。卒業までフル4年間続けた部活で得られたことの大きさを鑑みれば、そんな優柔不断な姿勢だって、TPO次第では幸運の女神に成り得るように感じています。
 入学半年間の経験は、「相手の立場に立って考える」、「相手:自分=51>49」に至るきっかけだったように思います。私にとってかなり苦い体験でしたが、何らかの言動に移す時には、“こうして欲しいなあ”、“これは他の人にはやってはいけないなあ”というように、苦い体験が反面教師となって、一呼吸おいてからスタートするようになったと考えられます。そんな姿勢を繰り返しているうちに、気がついたら私の行動理論になっていたのでしょう。さらに、この夏合宿を乗り越えたことが、私にとって大きな転機となりました。この時期を境に、合唱音楽の素晴しさにパッチリ目覚めたことです。以前にも増して、音楽が大好きになりました。何事においても、好きであること、好きになるまで追求し続けることは、その人の成長のエネルギー源になるのだと思います。
 話を進めましょう。
 3年生の11月になると、団執行の役目を背負うことになります。準備のための学年会が2年次後半から始まりました。それから卒業までの2年間の出来事は、現在の私を育ててくれた基盤になったと思います。その理由として、全部員数100名を超える大所帯だったこと、年間四つの演奏会が予定されていたことなど、楽しみよりも責任という重圧が伸しかかっていたことがあげられます。また、“成功したい”という強い気負いが視野を狭めていて、それらから派生する苦悩や苦労は、精神的な鍛練機会になっていたと判断できます。そんな理由が入り混じって、試行錯誤を繰り返しては、日々思い悩んでいました。当時は気づいていませんが、その経験が社会に出てから役立つことになったと確信しております。私の見解ではありますが、かなり興味をそそる面白いマネジメント体験記が執筆できそうな東薬合唱団活動だったと思います。
 混声合唱は、ソプラノ、アルト、テノール、バスの四パートで成り立っています。私はテノールのパートリーダー(以下、PL)に立候補しました。自主的というより、周りの声に押されての立候補だったと思います。PLの任務は、メンバー(テノールは20数名)を束ねて、テノールの音楽面の出来栄えについての全責任を負うことです。当時は、「合唱即合心」が暗黙の基本理念として存在していました。勉学は当然として、音楽面だけではなく、人としてのあり方にも気を配る活動を目指しましたから、当然音楽面以外にも責任を感じながら務めました。余談になりますが、「合唱即合心」の考え方は、20年後の仕事に大きな影響を与えてくれています。
 強く引っ張っていくタイプとはかけ離れた私は、執行委員会やPL会で決めた目の前の約束事や課題をコツコツとクリアしていく、不言実行型でいくことにしました。メンバーに対しては、“①毎日の目標と連絡事項を明示して共有化すること”、“②パート内の役割は、適材適所で全員に担ってもらう環境作り”を重視しました。もう一つは、東薬合唱団の代表者である部長がテノールであったことから、“③他のパート(ソプラノ、アルト、バス)の先を走る集団作り”を、リーダーである私への目標と定めました。その心は、テノールパートが全体の足を引っ張っては、部長が団員に対して率直に意見が言えなくなることを危惧してのことで、あくまでも、私の心に張り付けて封印していた私への責務だったのです。その様な思いからか、後輩からは“厳しいパート練習だった”と評されていたそうです。3年次11月から勇んで執行をスタートしたものの、思い通りに進まなかったことの方が多かったですね。精神的に未熟で余裕もありませんから、シャカリキになればなるほど空回りしていたのかもしれません。
 ここで、“パート内の役割は、適材適所で全員に担ってもらう環境作り”の事例を、少しだけお話しておきましょう。その一つが、私の補佐役としてのサブパートリーダーの登用です。4月に入部する新1年生部員の練習を、私が担当することになったことも理由でしたが、それ以上に同志への期待感から依頼しました。また、テノールソロ、男声カルテット(四重唱)、歌唱指導、楽器伴奏など、その都度メンバーから選任することになります。限られた同じメンバーで対応するのではなく、一人ひとりの力と美点・長所を見極めながら、多くのメンバーに担ってもらいました。「合唱即合心」意識は、メンバーの共通認識として身についていましたから、少しでも潜在能力を発揮してくれる機会を用意するよう腐心したのです。これとても、手探り状態での試行錯誤でした。メンバー一人ひとりの気持ちを推し量って想像するのですが、本人が望んでいたかどうかは分かりません。とにかくメンバーの思い最優先で、そう意識しながら対処していたのだと思います。
 4年生になってからは、後輩の育成も大きな任務と考えて取り組みました。後輩達には迷惑だったかもしれませんが、卒業間近まで世話を焼きました。その一つとして、現PLと次期PLによるリーダー合宿(10数名参加)を立ち上げました。団内の合唱指導者同士が切磋琢磨し、アマチュアであることに甘んじることなく自力で技術を磨く場として、2泊3日で行いました。……
 昭和43年(1968年)11月8日(金)は、1年間の活動成果を問う東薬合唱団第12回定期演奏会が渋谷公会堂で行われました。私にとっては最後の演奏会です。渋谷公会堂は、1964年東京五輪ウェイトリフティング会場として新設されました。1,800名ほどの座席数が、ほぼ満席だったと記憶しております。定期演奏会が終了して、私は蛻(もぬけ)の殻状態に陥りました。卒業してからも、しばらく引きずっていたと思います。私の大学4年間は、東薬合唱団を中心とした生活が全てだったのです。

 こうやって、断片的で限られた内容の出来事や思いを文字に起こしてみれば、「相手の立場に立って考える」、そして「相手:自分=51>49」が、私の心に根付き始めたのは“この時期だったのかなあ”と思えてきます。ただし、仲間のお役に立てたかどうかは、全く別問題ですね。企画力、表現力、コミュニケーション能力、どれをとっても未熟でしたから。独りよがりで空回りしている姿が、あちこちに見えています。時には、そんな自分を認めながら、頑なな姿勢を崩そうとしなかった姿も記憶に残っています。
 実は、心の中から消えることのなかったそれらの教訓は、10数年を経て心構えの変化につながっていくのです。昭和54年前後でしたでしょうか、所属していた販売会社で部下を持つ管理職を拝命するようになりました。檄を飛ばして先頭を走るリーダーシップスタイルが主流の業界でした。夜の席では、お酒に弱い人は(空気として)歓迎されない職種でもありました。両方ともに失格の私は、次の三つの目標を掲げて粘り強く対処することにしました。その目標は、東薬合唱団時代のものと何ら変わりませんでした。“①毎日の目標と行動計画の共有化”、“②グループ内の役割を、一人が一つ以上分担して責任を負う”、“③社内の他グループの先頭を走るです。当時の会社では画期的であったミーティングの機会を小まめに持って、一人ひとりの考えをベースに信頼のコミュニケーション作りに力を注いだのです。相変わらず自信のない私は、ここでも「相手の立場に立って考えること」、「目標&目的共有化のコミュニケーション」が基本スタイルだったと思います。
 そんな私が、「相手の立場に立って考えること」の重要性を、決定的に意識したのは、確か40才代前半でした。私の人生のターニングポイントでしょう。その内容を語るには、私の現有表現力では難しそうです。内容がまとまりそうにないこと、紙面ばかりを割きそうなことが主な理由です。今日の段階では、努力課題にしたいと思います。
 私が真に自立したと思えるのは、正にこの時でした。それからは、私の生き方の土台となる行動理論(心構え)の一つを、「相手の立場に立って考えること」と決めました。もう一つは、「私の考えに理由を添えて、率直に発言すること」にしたのです。そう決めて行動するようになって、素直に自分を見つめて(看脚下する)、自分の弱さとも向き合えるようになりました。向き合うことで、多様な考え方があること、誰かに支えてもらっていること、などが素直に認められるようになりました。相手を受け容れて対話することで、周りの人の弱さにも気づくようになって、躊躇いながらも見返りを求めない自然なアクションが可能になってきたと思います。言動に変化が出始めたのです。この変化が転職後の人生の支えになって、今でも私の心に息衝いているのです。
                                                           (2017.8.2記)

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