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エッセイ169:言葉の意味を理解し、発する言葉を吟味することが、心を磨くことになる‼!

 私たちは、相手がどなたであろうとも、言葉と表情、(伝わることの難しい)心遣い、そして行動を媒介としてコミュニケーションを図っています。その中でも、圧倒的な主たる手段は言葉になりましょうか。その言葉の意味の解釈いかんで、コミュニケーションの品質格差が生じてしまいます。ですから、コミュニケーションのあり方を追究していくと、“発した言葉の真意をどれだけ正しく理解してコミュニケートされているか!”という問題に行き着くのです。
 今回のエッセイは、言葉に関して感じているそのような問題を考えてみたいと思います。信頼と安心のコミュニケーション実現の阻害要因となることに気づいて頂きたいのです。私の見解ではありますが、かなり深刻なテーマだと思います。

言葉の意味を理解し、発する言葉を吟味することが、心を磨くことになる ‼

 アナウンサーの皆さん、コメンテーターとしてテレビなどのマス媒体に出演されている皆さん、“発する言葉の意味を理解してお使いでしょうか!”、“言葉の使い方を間違えていませんか!”…… 。そう断定できることに、時々出会います。フリップ、パネル、画面の誤字表記も時々あって、そうなってしまう要因を、担当されている方からお伺いしたいと思うことさえあります。皮肉っぽくて申し訳ありませんが、そのような傾向が気になって仕方がないのです。
 その一つが、何でもかんでも「号泣」を使う、アナウンサーやコメンテーターそしてゲスト出演者に対しての問題提起でした。号泣とは、“大声をあげて泣くこと”、“烈しく泣くこと”です。それなのに、ちょっと涙した程度にも号泣、もらい泣きにも号泣、泣き方の程度なんてお構い無しに全て号泣なのです。明らかに間違っているそのような使い方の連発を、苦々しく感じたこともありました。言葉のプロであるはずのアナウンサーが、情けなくなりました。“もっと言葉の意味を勉強してください。プロの自覚が足りないのではありませんか!”と。
 また食レポでの「絶品」のオンパレードにも、苦言を呈したくなります。有名といわれる料理や食べ物を紹介する番組が多いからでしょうか。都度発せられる言葉が絶品、同じ番組の中でも絶品の連呼が続きます。Aさんも、Bさん、Cさんも、絶品なのです。“ぜっ~ぴい~ん”という言い回しには、失笑してしまいました。絶品というのは、“極めて(この上なく、極限、はなはだ)すぐれた品物や作品”、“くらべるものがないほどすぐれた品物、作品”のことを指します。使われる頻度が高くなる言葉ではないように思います。世の中絶品だらけでは、何が絶品なのか怪しくなってしまいます。そもそも絶品という判断は、かなりの経験を積んで初めて分かるような類のものではないでしょうか。
 アナウンサーもコメンテーターも、発する言葉が命とも言える仕事だと思います。使うべき言葉を選んで発することが最低限の倫理観であるはずです。公共の電波を使って不特定多数の人を相手にする、非常に影響度の高い仕事なのです。間違った解釈をしても、それが正しいと誤解されてしまう危険性をはらんでいますし、間違ったまま流布してしまうことも考えられます。「号泣」、「絶品」が、その証しでしょう。間違いに気づいたら、“謝罪してお終い”で済まして良いはずがありません。最近の傾向は、そんな基本的自覚が薄らいでいますし、世間の規範をも侵食していると感じてしまいます。
 10年前あたりと現在を比較しても、その問題意識が好転しているとは思えません。昨年(2017年)は、国会でのある論戦で頻繁に登場した「忖度」が、ユーキャン新語・流行語年間大賞に決定しました。あまり使われることのなかった忖度は、あの問題によって時代劇の悪代官役として有名になったのです。忖度が頻繁に登場するようになって、“忖度の本来の意味は違うのではないか?”という疑問に駆られました。国語辞典を紐解けば、“他人の心の中をおしはかること”とあります。“何を望んでいるか考えること”、或いは“推察”、“慮(おもんぱか)る”と同義といえましょう。
 それまでの私は、顧客満足という理念を優先して仕事に取り組んできましたし、その考え方は今でも変わりません。現在勤務する会社の顧客は、通院中の患者さんやストレスを抱えた生活者になります。どれだけ顧客に寄り添ってサポートできるかが問われる仕事なのです。ですから、“顧客の心の中をお(推)しはか(量)って、苦しみや悩みは何なのか、どうして欲しいと感じているのか、何が必要なのかを考えること”を心がけて相手と向き合います。症状を緩和し、治癒の手助けをし、全快後の自立も視野に入れて、一人ひとりの思いやニーズを引き出して、個別に対応する仕事になります。だから、慮ることを問い質し、相手:自分=51>49を行動指針とするよう言い続けているのです。それが基本的な仕事のスタンスですから、忖度の意味を辞書で確認をしながら、何でマイナスイメージ的な使われ方がされているのか、大きな違和感を禁じ得ませんでした。それも、影響力の格段高い国会の場で……。ほとんど出番のなかった言葉が、本来の意味とはかけ離れた解釈となってアッという間に拡散してしまいました。
 再度声高に申しあげます。顧客の心中を推し量り、何を望んでいるのか、どうして欲しいのか…、を推察しながら対処するのが医療従事者の仕事です。ストレスの溜まる忖度を通じて心を砕き、対話を通してあれこれ考えて、最良の方途を意思決定する仕事なのです。忖度という言葉がどのように解釈されようとも、現場の医療従事者は使命を全うするために忖度することに変わりありません。その様な仕事が存在することにも思いを馳せて、言葉を選んで頂きたいと願っております。余談になりますが、国会の場では「忖度」という一言で済ませないで、思いの丈をそのまま表現された方が理解され易かったと思います。例えば、「国民には理解されない先回りした服従ではありませんか…」、「無言の圧力となって、そういう結果を導いたのではありませんか …」とか … 。
 影響力の高い司法・立法・行政に携わる皆さん、アナウンサーを始めとしたマスコミの皆さんは当然として、私たち一人ひとりがもっと言葉の勉強に励まなければいけませんね。使う言葉が適切なのか、問題意識を高めて検討する… 。もっとプライドと覚悟を持って、吟味して言葉を発する… 。撤回発言、訂正発言は見苦しいこと、と自覚して発言する… 。百歩譲って、撤回するなら潔く間違いを認めて、同じ間違いを繰り返したなら身を引く覚悟で臨む… 。さらに、年数回でいいから、自分の発した言葉を検証して“言葉を使う仕事をする資格があるのかどうか?”謙虚に振返る… 。そのようなことを、あれこれ思い巡らしています。その上で、自分自身の職責の影響度に鑑みて、それでもやり通す覚悟があるかどうか、年に一度の誕生日にでも確認する位の矜持で仕事に臨まれては…、と深く感じているのです。

 以上、私見を申しあげましたが、このような言葉遣いの問題は、相変わらず山積されているのが現状だと思います。それは、誰にでも起こりうる問題だからでしょう。意味が不確かな言葉、意味の分からない言葉は、必ず辞書や書物で調べることを、これからも私自身の行動指針にしてまいります。さらに、“生涯を通じて謙虚に学び続けるという誠実な姿勢をもち続けること。それは、人間に付与された他者への感謝の表現の一つである”という考え方を、心に刷り込んで対処してまいります。そして、謙虚に学ぶということは、“人の振り見て、我が振り直せ”であることが、もう一つの忘れてはいけない自戒の指針となりました。
 こうやってコミュニケーションのあり方を考え続けていくと、いつの間にか次のような見方へと深まっていきました。“使う言葉や言動が貧弱だと、考え方や姿勢もが貧弱になってしまう”という実感です。ですから、事あるごとに申しあげております。「言葉を磨こう、言葉の意味を理解しよう。言葉を磨けば、考え方が磨かれる。考え方を磨けば、心が磨かれる。心が耕される」と。
 皆さんは、どう思われますか。
                                                             (2018.7.16記)

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