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エッセイ195:ユーモアとウィットを身に着けたい

 幼少の頃から、引っ込み思案で、超という接頭語がつくほど消極的でした。そんなことから、人づき合いがからっきし苦手でしたね。かなり克服できたような気もしますが、その土台は今でも変わっていません。これまでのエッセイで、実例も含めて触れてきたと思います。
 一歩踏み出すことは、ある時期までの私にとって、清水の舞台から飛び降りるほどの難関でした。少しばかりの勇気を絞り出せば、新たな世界に足を踏み入れることができるのでしょうが、結局のところ逃げていたことになります。また、競うことを極力避けてましたから、その気があっても手を挙げることなく、誰かに譲ることが多かったと思います。心の底では後悔するのですが、その姿勢が大きく変わることはありませんでした。気がつけば、サポートする役回りが多かったですし、自分一人でできることを見つけて、ヒッソリとやっていることがほとんどでした。
 だからでしょうか、行動を起こしたいけれども右往左往している人、立ちすくんで躊躇している人への対処の仕方が、少しは余計に分かるような気がしております。思い込みかもしれませんが、半歩でも前へ踏み出す力を引き出す、より的確な一言が発せられるように感じているのです。ある時、そのような私なりのあり方に意義を感じ始めました。消極的であっても、そんな生き方に自信を持つようになりました。私の改善点が、誰かのお役に立つ形に変化していったのでしょうか。そうした積み重ねが、相手の気持ちから出発することを優先して、多くの人に何らかの役割を担ってもらう組織運営(マネジメント)を意識するようになったと思います。さらに、実践行動が積み重なって、相手:自分=51>49という考動理論に行き着いたと思います。
 そんなことを振り返りながら、“そういえば、…… ”ということが思い出されます。小学校高学年、確か5年生の時だったと思います。60年も前のことです。今の時代では考えられませんが、一クラス50人を優に超えて60人に近かった時代です。私の学んだ盛岡市立仁王小学校の全学年全クラスには、岩手大学教育学部の4年生が、教育実習としてひと月ほど配属になりました。教生の先生と呼んでいたと思います。その時期に、教生の先生方の送別会も兼ねたクラス挙げての学芸会がありました。出し物は自主製作が基本で、全員参画が原則だったと思います。しかし、どのグループにも入れない人が必ず出てくるのです。そのような同級生全員に声をかけて、10数名で「とんち(参照:本文29~30行目)教室」という芝居劇をやりました。“ちいちいぱっぱ、ちいぱっぱ、スズメの学校の先生は …… ”と歌いながら、皆で考え出したストーリーを演じたと思います。大笑いしながら……。吉本新喜劇の先駆けだったかもしれません。
 話を進めましょう。
 一方、社内教育の仕事に従事してからは、私自身が変わらなければ、この仕事は務まらないということが明らかになりました。この時は腹を括って、清水の舞台から飛び降りることにしました。飛び降りたものの、苦悩・苦労・苦痛から脱出するまで、どれくらいの年月を要したでしょうか。それは、目の前の仕事へのやりがいを実感できるようになった時でした。E森83回は、清水の舞台から飛び降りたことの一部をつぶやいてみたいと思います。それは、“ユーモアに富んだ、ウィットに富んだ対話をすること”と“全力投球すること”でした。

ユーモア(humor)とウィット(wit)を身に着けたい

 日常生活でつくづく感じていることですが、とにかく外国語が飛び交うようになりました。中には、外国語風と思しき省略した言葉も出てきます。多くの皆さんは、意味を理解して使われているのでしょうが、私の場合、ついていくのが難しいと実感することが増えました。政治・経済の世界でも、SNSを含むマスメディアの世界でも、初めて聞く外来語が次々と湧き出してくるように感じるのです。マイペースではありますが、諦めることなく、知的欲求と調べて理解する努力を後退させないようにしております。
 そのような状況の中で、最近ではほとんど聞かれなくなった二つの英語に、懐かしさと親しみ、庶民的な気高さを感じております。それは、ユーモア(humor)とウィット(wit)です。意味は類似していますが、その二つを合体させて表現すれば“ユーウィット(ユーモア+ウィット)”とでも名付けたいくらいです。そういえば、前文で紹介した幼少期の「とんち教室」には、そんな気配が漂っていたと思います。
 さて、ここからが本題になります。
 引っ込み思案で、積極的に行動を起こすことを避けていた私にとって、清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟をしたことの一つは、何事にも全力投球することでした。それは、目の前の問題・課題とキチンと向き合うこと、諦めないで取り組むこと、その場しのぎで誤魔化さないこと、…も含みます。具体的な考動指針としたのが、“目標を決める”、“準備万端整える”、“目標達成を目指して必ず実行する”など、蔑ろにされがちな当たり前のことばかりです。6W3Hを明確にしてPDCAサイクルを回すと言い換えてもよさそうです。これらに関しては、何度となく問題提起をし、私の考え方や実践例を紹介して参りました。
 今回は、もう一つの“ユーモアに富んだ、ウィットに富んだ対話”の取組みについて、紙面を割きたいと思います。
 先ず、ユーモアとウィットの意味を復習しましょう。ユーモアもウィットも英語で、お互いが類似語の間柄ですから、大雑把に捉えると同じ意味に近いのですが、言い方が異なるように微妙な違いがあると理解しております。
 ユーモアは、“気のきいた、上品なこっけい味”のことです。こっけいとは、“おどけていておもしろおかしいこと”、“ふざけていて、ばからしい感じがすること”という意味ですが、上品なところが気に入っています。
 ウィットの意味は、“人の思いつかない巧みな発想で驚きや笑いをもたらす、機敏で鋭い知的作用”、“機知(その場に応じてすばやく働くするどい頭の働き、すぐれた才能)”、“とんち(その時、場合に応じて、すばやく働く奇抜な知恵)”です。とんち(頓知)が気に入っています。
 ユーモアとウィットの得も言われぬ洒落た雰囲気に、淡い憧れを持ったことがきっかけだったと思います。簡単そうに思われるかもしれませんが、人見知りの激しかった私にとっては、全力投球の何倍も『そうは問屋が卸してくれない』(そう簡単には事が運ばない)取組みでした。しかし、腹を括って向き合えば、成就することが体感できたのです。私なりのユーモアに富んだ、ウィットに富んだ対話の取組みは、粘り強い試行錯誤と、転んでも転んでも起き上がる粘り強さが、功を奏したと思います。稚拙な内容でしたが、笑いと全力投球を通して少しでも気を引くことが中心でした。現実の姿は、ユーモアやウィットの本質とはかけ離れた、いわゆる“おやじギャグ”に近かったと思います。それでも、何年か続けていくうちに、私の熱意&誠意として受け取ってくれるようになりました。懲りずに続けていくと、機知に富んだ状況対応ができるようになっていったのです。自然体でとんち教室をやれるようになったと、心の中で自画自賛しながら励み続けております。
 懲りずに取り組んだのは、強い問題意識を感じていたからです。研修会や勉強会で、嬉々として取り組み、参画する人の少なさが理由でした。“学ぶことが好きです”と、本音で言い切れる人が少ないことを常に感じていたからでした。『好きこそものの上手なれ』ですから、先ず、学ぶことが好きになって欲しいのです。私の主宰する学び舎を、そんな空気でイッパイにしたいのです。難しい課題ではありますが、志のレベルを落とすつもりはありません。
 日々の仕事場においても、ユーモアとウィットを意識しております。ただし、あくまでも自然体ですから、メンタル面のちょっとした余裕が大切だと思います。研修講師として社員の前に立つ時は、堅苦しい雰囲気を和らげ、学ぶことに親しみと楽しさを感じる手段として、日頃からかなり意識してネタ作りに励んでいます。学ぶことが大好き人間を増やすことが目的ですから、“対話が楽しい”、“対話したい”、“対話が好き”といったような気配が感じられると、それだけで嬉しくなります。さらに、対話の幅が広がり、対話の引き出しが増えて、信頼のコミュニケーションのあり方の本質理解が深まっていくことを願っております。
 最後に、一点だけ申し添えておきます。グルグル回りの応答の対話を、状況に応じて対処できることが必須要件だということです。ユーモアもウィットも、応答の対話があって心に沁み込んでいくのです。この件は、機会を改めて取りあげたいと思います。
                                                                                                         (2019.8.1記)

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