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エッセイ146:井上君は、「如才ないね」、「スルメだね」

 平成29年(2017年)のスタートエッセイ128回で、今年の強調したいテーマとその理由の一端を披露しました。そのテーマは「心構えが変われば言動に表れる。言葉と態度が変わる」です。
 きっかけの一つが、「激しい言葉は、その人の主張の根拠の薄弱さを示す」というヴィクトル=マリー・ユーゴー(フランス/詩人・小説家・政治家)の至言&諫言でした。この何年かの間、どなたとは申しませんが、プロパガンダ風の激しい言葉の氾濫が気になっております。また、誰にだって可能な結果に対する理由の後付けをして、したり顔(今流で言えば、どや顔か?)気取りで済ましてしまう様子に、問題意識がざわついてしまうこともあります。さらには、氾濫する情報の内容を吟味せずに信用し、或いは理解しないまま安易にコピペしてしまう風潮に対する危機感が、私の中ではかなりの頻度で自然発生し続けています。全ての原因は、心構えにあるのです。
 強調する場は、私が企画し運営する教育機会だけではありません。それ以上に、私自身に対する自省的&自制的&自己啓発的意味合いが強いように感じています。ここ数年、“私の心構え(行動理論・行動姿勢)と言動の因果関係を、キチンと検証しておきたい”という思いが、時々顔を出すようになりました。最近では、後悔することもあった(かなり遠い昔からの)私の言動について、その原点となる心構えが何であったのか、時間を割いて総括しておきたいという物静かな意欲が、日々強くなっているのです。それらが、私の現在の姿に影響を及ぼしたと納得するようになったからでしょうか 。或いは…………… 。
 人によっては、“だから何なのさ”と感じられるでしょうが、より正直に、より謙虚に、より客観的に己の心構えと言動の因果関係を看脚下すれば、これからの人生の生き方(私の場合は残りの人生の生き方)を見直すヒントや着眼点が見えてきます。心が解(ほぐ)されて耕されるような感触を味わうことができそうに思えるのです。それは、(ある年令に達すれば実感されるであろう)心的余裕がもたらしてくれたご褒美と決めています。そして、キチンと心を調(ととの)えて、それまでの人生と向き合うこと、肝心な場面においては、年相応の雰囲気を醸し出すことができる存在でありたい、という思いが強くなってきました。だからでしょうか、自分自身との対話、率直な自問自答の対話は、年を重ねるほどに奨励したいと考えるようになったのです。
 今回は、私のある時期のお話しになります。恐縮至極の体での呟きですから、興味を持てない方には、パスして頂きたくお願い申しあげます。ゴメンナサイ。 

井上君は、「如才ないね」、「スルメだね」

 「相手の立場に立って考える」、「相手:自分=51>49」は、いのうえ塾のカリキュラム編成や運営において根幹となる理念であり、同志や仲間には掘り下げて考えて欲しい行動理論となりました。しかし、それらは“言うは易し、but 行うは(超)難し”の代表例なのです。そのことを十分承知しながら自問自答したいと思います。

 先ず、“行うは、超がつくほど難しい理由がどこにあるのか”から考えてみましょう。
 理由の一つとして考えられるのは、自身のことすら覚束ないのに、相手のことを考えることなんて所詮無理、という意識ではないでしょうか。その意識は本音かも知れませんが、それでは思考停止で終わってしまいます。そこで私は“相手のことを考えることは無理かもしれない。非常に難しいことだ”と認めた上でスタートする、と考えるようになりました。意識の問題は、乗り越えなければならない重要なポイントであり、行動結果に大きく影響する分岐点だと思います。
 意識の問題をクリアしたとして、次のような関門が待ち受けています。
「相手の立場に立って考える」ということは、“どのようなことを、どのような視点で、どのように思考するのか”、“考えて意思決定したことを、どのような形で言動として表すのか”など、その都度悩まされることがいくつも出てきます。真面目に追求すればするほど、手探り状態からのスタートになるのです。弱輩であった時代(今でも弱輩と認識していますが)には、言葉の表面上の意味は認めても、具体的な行動レベルは雲を掴むが如きのことが多かったと記憶しております。古希を過ぎても、立ち止まって考えることが多々あります。いつだって、相手の数と同じだけの対応が迫られるからです。画一的な対応策は通用しません。状況に即した対応が求められます。それが実態ですから、“かなりの人生経験、実務経験、それも失敗から学んだ数多くの経験の積み重ね”が、どうしても必要になってきます。“年を重ねても難しい命題”と実感しております。

 しかし、“難しいから”と言って、手を拱いて、何もしない訳には参りません。行動指針として、ある時期に「相手:自分=51>49」を提唱しました。業績主義が声高に叫ばれてからは、(残念ながら)見向きもされなくなった「相手の立場に立って考えること」を、その重要性を忘れないために考えた私自身への自戒の指針として… 。それは、15年ほど前のことでした。現実に目を向けますと、スピードや効率優先の競争社会の中では、“自分自身のことで精一杯で、相手に気配りする余裕はありません”というのが本音でしょう。言葉では理解している顧客(=相手)満足も、目の前の仕事に窮している状況下では、相手のことを気にかけることなどできそうにありません。それが実態です。自戒が出発点でしたが、ある時から、人材育成という視点に鑑みながら問いかけ続けようと決心しました。
 こんな現象も頻繁に見聞きします。何か問題が発生すれば、コミュニケーション(のあり方)の重要性が叫ばれることです。また、問題の原因の一つがコミュニケーションであることに気づいていないことも、かなりのケースで見受けられます。多くの場合、コミュニケーションのウィークポイントが傾聴(気持ちを集中して、熱心に話を聴くこと)であることからして、いかに「相手の立場に立って考えること」が疎かにされているか明らかです。さらに、コミュニケーションの問題では、いくつもの阻害要因が入り混じっていることが、“行なうは難し”になるのだと思います。いくつもの要因が絡まり合っている“実行が難しい”理由の追究は別の機会に譲るとして、「相手の立場に立って考えること」が難しいという実態は、“従事した全ての職種において共通している”というのが私の見解になります。

 話を先に進めましょう。 
 それでは、私が相手の立場に立つことを意識し始めたのは、一体いつ頃からだったのか考えてみたいと思います。このひと月の間、そのきっかけや経緯を掘り起こしてみたのですが、現時点では整理がつかず整頓できていない状態です。しかし、半世紀近くも前の実状を少しずつでも明らかにしてみると、今まで気づかなかった私の潜在意識の一端が、おぼろげながらも見えてきたように感じます。その実状を取りあげてみましょう。
 私が社会人になって3年目(1971年)ですから、46年も前のことになります。その時の職場の上司は、褒め言葉として「井上君は、如才(如在)ないね」と評していました。ある日、「如才ないって?……」と質問したことがあります。年の差が二回り近くも先輩であった上司は、「井上君のことを指すんだよ」と煙に巻かれた感の回答を頂きました。そう記憶しております。“如才ない”という響きが何気なく嫌であった私は、その意味を調べてみました。国語辞典には、“手抜かりがない”、“気が利く”、“愛想が良い”と三つの意味が出ています。その内のどれを指していたのか、今となっては確かめようもありません。いずれにしても、私に対するそのような評価を意に介していなかったと思います。当時の私は、毎月配属になる研究生(新卒薬剤師)の教育係(現在のチューター役に相当)を任されていました。思い返して想像すれば、その三つ(手抜かりがない、気が利く、愛想が良い)のバランスの良さを買われていたのかもしれません。
 また、年の近い何人かの先輩薬剤師からは、「井上君はスルメ!」と言われていました。「スルメはね、噛めば噛むほど味が出てくる。君はスルメと同じだ」と。そのことに不満はありませんでしたが、“フ~ン、そんなもんか?”程度の受け止め方だったと思います。どのように評価されていようとも、いちいち気にかけることなく、目の前の仕事に精一杯の毎日でした。
 これらの話と「相手の立場に立って考える」こととの関連に言及する前に、この機会に幼稚園や小学生時代(60年以上も前)の私のことにも触れておきたいと思います。

 幼稚園の頃から、逆らわないおとなしい、大人からしてみれば良い子だったようです。外に出ると、引っ込み思案で、何か指示されるまでは、自分からは何もしません。やるとしても最後の方で、いつも置いてきぼりをくらうような目立たない子、存在感の薄い子だったことを覚えています。また、人一倍人見知りで、人づき合いが苦手でした。実を申せば、この年齢になっても変わっていません。それ以外にも、紹介するに憚るような私の姿がいくつもありますが、今回は省略させて頂きます。
 小学校入学後も、特に変化はありません。やりたいことがあっても、欲しいものがあっても、私から意思表示することはなかったと思います。言わなかったのではなく、気が小さくて言えなかったのです。度胸の問題、覚悟や本気度の問題ですね。或いは、手のかかることは避けて、できるだけ楽をする傾向が強かったかもしれません。誰かがやりたい(或いは、欲しい)と言えば、ほとんど譲っていました。何かを決める時には、周りの意見に左右されて自己主張できないタイプで、本心ではすごくやりたくても、指名されるまでは、自分から積極的に意思表示したことは皆無だったと思います。何事においても、声に出して意思表示しなければ伝わりません。結局、分かって欲しいという思いを表さないまま、先送りするか諦めるのが日常の行動パターンでした。
 その一方では、思うように事が運ばなかった場合、気難しさが顔に出るのです。そうなると、頑固なまでの無口になってしまいます。不機嫌さで殻に閉じこもる姿は“自信の無さの裏返しであり、恥ずべきこと”と、大人になれば理解できますが、その癖から抜け出すまでに、ふた昔の時間を要したと思います。我がままで、甘ちゃんでしたね。また、こんな姿も記憶に残っています。本心は嫌なことでも、頼まれると断ることができなかった私です。なかなか嫌とは言えない人でした。
 これらをまとめて自虐的に表現すれば、気弱で意志薄弱、日和見的優柔不断、陰の薄い目立たない臆病者、時には扱いづらい頑固者だったと思います。
 小学校高学年(4年生)になって、少しだけ変化が訪れました。担当する係の仕事内容や日々の勉強は、常に褒められるほどの出来栄えでした。言われたことは、人知れず、コツコツ自力で努力していた気がします。それはやる気の問題ではなく、そうすることが私の唯一の居場所になっていたのかもしれません。特に、学級新聞の企画編集からガリ版(謄写版)刷りの経験と3年間やり通した実績は、その後の人生の各ステージにおいて、大いに役立ちました。今でもそう感じています。
 しかし、ここまで披露した多くの根本的な性格・行動姿勢は、そのまま40才近くまで変わることはありませんでした。実は、まだまだ書き足りないほどの私が存在するのですが、話をさらに進めたいと思います。

 そんな私でしたが、ある程度の年令(いつ頃だったか定かではありません)になって、私と同じような人の存在が気になり始めたのです。私の想像の世界ではありますが、「私の思いを聴いてください。私に声をかけてください。…… 」というその人たちの心の声が、聞こえてくるのです。それも、一人二人ではなく、時と場合によってはかなりの比率で … 。独りよがりの思い込みかもしれませんが、ちょっと働きかければお互い共感できそうな気がするようになりました。同類項の誼(よしみ)なのでしょうか … 。また、高校や大学のクラブ活動を通して、組織運営の難しさや対人関係の機微に触れて、チームの運営成果を高めていくための要件や着眼点を、いつの間にか意識するようになっていたと思います。
 社会人になってからも、私自身の自信の無さからくる周りのメンバーの思いを第一優先にする姿勢は、何ら変わることがなかったですね。そして、いつの間にか行き着いた先が「相手の立場に立って考える」ことでした。正直雲を掴むような課題でしたが、その時は“これで行こう”と決めたのです。それも、誰かのためとか、何かのためとか、そんな思いではなく、私にやれることは、これしかないと……。

 ここまで呟いたように、私の性格も心構えも、決して褒められたものではありません。だからこそ、時々立ち止まっては、心構えも性格も正してみることが、この世で共生している一人間として避けては通れない道だと思うようになりました。その重要性を、日々接する市井の方々の善行から教えられています。気づかないまま通り過ぎることは、もう許されない年令なのです。
 気づいたら実行です。“試行錯誤で構わないから”と肚を括って、具体的な言動を掘り下げて見直してみます。そうすれば、私の言動にも変化の息吹を見出すことができそうな気がするのです。今回の自問自答から、その都度、私に適した生き方や居場所が育まれていったことが見えてきました。幼少時代から歩いてきた道程とその理由が、断片的ではありますが知るに至りました。
 今思えば、社会人3年目に頂いた「如才ない」という評価の原点は、幼稚園・小中高大の私の自信の無さからくる臆病な消極的姿勢がきっかけとなって、少しずつ少~しずつ、相手の立場に立って考えてしまう思考習慣になっていったのでしょう。その結果が、無意識のうちに“相手に迷惑のかからないような手抜かりのない準備”をし、“相手に喜んで頂けるような気の利いた配慮”と“相手の気持ちを解す愛想”で対処していたと思います。自信が持てないからこそ、何とか克服しようと努力をしていたのです。ただひたすらに … 。また、人知れずコツコツ努力をして、これも無意識に「相手:自分=51>49」を実践していたことが、人によっては「スルメ」と感じて頂いたのかもしれません。
 部下を持つ管理職を拝命してからは、日頃目立たない人、グループワークに馴染めない人、自信のなさそうな人にも出番を作ること、私のできる範囲で可能性を引き出すこと、など努めて意識するようになりました。それも、「相手の立場に…」の産物だと言えそうです。他方、消極的とは正反対の積極姿勢であったなら、それはそれで違った景色に彩られていたことでしょう。
 今回のエッセイは、白黒を明らかにすることではありません。目的は、「私の現在の言動の故郷(心構え)を、60年以上も前まで遡って、より客観的に明らかにすること」、さらに「心構えの変遷を通して、言動がどのように変わっていたのかを知ること」、そして「その因果関係を総括すること」でした。また、私に影響を与えてくれた諸先輩、私の潜在意識・潜在能力を引き出してくれた恩師・上司を知る旅にもなりました。

 さて、気軽に呟いてはみたものの、かなりの時間を要しました。記憶を呼び覚ますことで、頭の活性化運動にもなりました。一方、内容に目を転じますと、気負いが高じてしまい、中途半端で深みの無さが露呈しております。例えば、字数は膨らみましたが行動例が不足しています。私の根本的な性格・行動姿勢の根拠まで掘り下げられていません。そのような消化不良気味を言い訳にしながら、再度恐縮至極の体で、次々回あたりで続編を考えております。そんな我がままをお許し頂くとともに、今後とも宜しくお願い申しあげます。
                                                                                                                                   (2017.7.7記)

エッセイ145:なぜメモが大事か!

 曲がりなりにも私のオリジナルといえる教材を作成できたのは、いつ頃だったでしょうか。昭和62年から平成にかけてだったと思います。そのきっかけを思い起こせば、仕事遂行上必要に迫られて作成したモノ(教材、マニュアル、配布資料)ばかりです。「必要は発明の母なり」気分どころではなく、ただ直向きにガムシャラに必死で取り組みました。
 作成にあたって、忘れずに意識したことがあります。6W3Hを盛り込むことです。特に、WHYですね。“何故か?(理由、背景)”が納得できれば、誰彼に言われなくてもセルフコントロールで努力するのが、“考える葦”と言われる所以だと信じているからです。平成3年頃からは、教育ニーズを先取りして、必要と思える教材や資料を積極的に作り始めました。その一つが『メモ習慣化の効用~なぜ“メモをとれ”なのか?』で、現在も活用しております。メモの重要性に関する補足教材作成の理由は、自発的にメモをとる社員数やメモの量が、年々下がってきつつあると感じたことでした。さらに、私自身の“メモにどれだけ助けられたか!”という実体験が、間違いなく後押ししてくれました。
 エッセイ145回は、改めてメモの効用を考えてみたいと思います。

なぜメモが大事か!

 先ず、私が作成した『メモ習慣化の効用~なぜ“メモをとれ”なのか?』の一部を、披露させて頂きましょう。

*メモは、メモランダム(memorandum)の略。「ジーニアス英和辞典・改訂版」によれば、〔…に関する〕
覚え書き、〔将来のための〕備忘録、簡単な記録、メモ、〔略式の〕社内伝言、〔同僚間の〕回報…の意味。

  (1)忘れ物防止(備忘録)
     人間のワーキングメモリー容量は、非常に小さい。今、インプットされた情報が、
     次から次へとアウトプットされてしまい、大切なことも忘れてしまう。
  (2)潜在意識への刷り込み効果
     書くことで、「心に焼き付ける」「心に刷り込む」という効用が生まれる。
     だから、模造紙やカードに書いたり、自己紹介を絵にして発表してもらうのだ。
  (3) メモ帳・ノートは「知識の宝庫」となる

 メモは、誰かの話を傾聴しながら、“自分の言葉で、簡潔に、キーポイントやキーワイドを、考えながら書く”、“限られた時間の中で、できる限り多くの重要情報を書きとる”作業。だから、
  (4) コンセプチュアルスキルが養える
  (5) 全体を観る力が身につく ~“木を見て森を見ず”にならないように!
  (6) とっさの判断力・決断力が養える
  (7) メモのスピードが速くなる
  (8) 集中力が身につく
  (9) 持続力・継続力が身につく
  (10) 想像力が養える~書き記すことは、無意識の想像行為であり、創造行為

 『断片的なメモ』を組み合わせることによって、
  (11) 新しいアイディアが浮かぶ、生まれる
  (12) コミュニケーション能力を養う~無意識に自分の言葉でメモを取っている
  (13) 問題意識の強化
     メモ行為が、問題意識の表現。その人のメモの数だけ、問題意識が存在するということ


 A4版1枚にまとめたこの補足教材で、“なぜメモが重要なのか”を説いています。20分は要するでしょうか。相手がどなたであろうとも、約束事は100%メモすることが躾化されていなければ、社会人失格、大人失格だ、というのが私の基本的見解です。何らかの事情で忘れてしまうことは、人間どなたにも起こり得ます。ですから、特に約束事をメモに残すことは、安心と信頼の対人関係構築のためのリスクマネジメントにもなりますね。

 エッセイ133回の前文で紹介いたしました元祖ID(Important Date)野球の野村克也氏は、自著「ノムダス 勝者の資格」(ニッポン放送プロジェクト1995.11第1刷発行)において、メモの重要性を述べられています。
 自らを“昔からのメモ魔”と称する野村氏は、メモ帖の絶対条件として、“丈夫であること”と“ポケットに入れて携行できること”の2点を挙げています。その上で、“なぜメモが大事かというと、メモが癖になると、“感じること”も癖になるからだ。人より秀でた存在になる不可欠な条件は、人よりも余計に感じることである”と述べています。以前、確か“鈍感さが一番の敵”というような野村氏のボヤキを聞いたことがあります。同感です。私の考える教育担当者に求められるスキルには、“感受性、問題意識、好奇心、想像力”をセットで入れております。(参照:エッセイ132回)
 今回のテーマから脱線しますが、安心と信頼のコミュニケーション実現の処方せんが、同著の中で述べられていました。併せて紹介しておきましょう。
 一つは、コトバの意義についてです。“精神的に弱りはてたとき、何が支えとなり、何が新たなエネルギーをもたらしてくれるか ― 私の場合は、もう「コトバ」しかない。勇気づけてくれる言葉=基本原則のみが、私を支えてくれ、精神をコントロールしてくれるのだ”。
 もう一つは、聴き方の有り様についてです。“適度にうなずく”、“適度に相槌を打つ”、“顔を輝かす”、“話し手を正視する”。この四つが聴くときの基本(原則)と言い切っています。

 本題に戻ります。
 ICT(information and communication technology)の急速な進展は、忙しない現代においては喉から手が出るほど欲しい便利さを、いとも簡単にもたらしてくれます。知りたいことは、身近な情報通信システムを通して、誰もが、リアルタイムに、容易に、そして安易に検索できるようになりました。ほとんど抵抗感なしに、気軽に手軽にコピペ(copy&paste)することが常態化しています。いちいちメモすることが、何とも間怠っこしくなります。効用も含めたメモの必要性なんて、もう廃れてしまった感があります。10年のスパンで比較すれば、真剣に集中してメモを取る姿は、明らかに少なくなりました。もう社会のインフラとして確固たる地位を築いたICTツールは、これからも私が予想つかないほどの進化を遂げ続けるでしょう。
私はこう感じております。ICTのメリットとデメリットを都度明らかにして、その上で、活用のあり方と活用方法を整理整頓して対処しなければいけないと思います。何事も、便利さに慣れてくると、安易にその便利さに寄りかかってしまいますそのことに気付かないでいると、思考停止という自己責任を放棄する病いにつながってしまうかもしれません。そんな恐れを膚で感じることが増えました。便利さが病気に発展することもあり得ることを、心のどこかに刻みながら、便利さを上手に活用しながら共生していかなければ、と願うばかりです。
 古希を過ぎた私は、明らかに旧人類、否、もう旧々人類です。数値化すれば、アナログ:デジタル=80~90>20~10あたりでしょうか。こんなアナログ人間の見解ですから、どれだけ受け容れて頂けるのか、限りなく不透明ですが、アナログの良さもありますから、ここは踏ん張って今回のまとめといきましょう。
 私の場合、メモの中身は、“教わった事、学んだ事”、“約束事”“感じた事”がメインになります。それ以外では、“気づいた事”、“気になる事、気になった事”、“思いついた事”などもあります。また、“教わった事、学んだ事を、持ち帰ってどう活かすか”のメモは、目的意識の高さに比例して質量ともに増えていきます。
 人一倍メモをとるようになって、感受性や問題意識が明らかに高まったと感じています。さらに、相手の立場を考える、一歩立ち止まって考えることを、かなり意識するようになりました。キチンと想像する時間も増えたと思います。それらの高まりは、何か変だと感じる嗅覚や皮膚感覚を研ぎ澄ましてくれます。科学的根拠は何もありませんが、そんな私の感覚を信じたいと思います。
 メモ習慣化・躾化(=メモ魔)の効用を、改めて考えてみました。
                                                                          (2017.6.20記)

エッセイ144:競争の原点は、対自競争に克つこと

 克己という言葉とその意味を知ったのは、確か40才前後でした。勤務していたTK販売のマネジャー研修において、当時のY社長が講話の中で引用された「克己復礼」だったと思います。
 販売会社においては、営業担当者が過半数を優に超えます。競合する同業他社との様々な競争、同じ営業担当同士との競争が当たり前の世界でした。競争といっても、自社のシェア拡大を目指す対他競争に明け暮れる毎日なのです。そんな中で知り得た克己の響きと意味は、目から鱗の感覚だったと記憶しております。皆がそうであるように、(かなりの)ストレスを感じる営業という仕事に対する考え方が、大きく変わったと思います。営業担当者の宿命である対他競争に対して、少しはおおらかに臨むことができるようになりました。
 今回のエッセイでは、克己について考えてみたいと思います。
 余談になりますが、上記のような経緯を辿った結果の一つとして、「患者とのコミュニケーションの基本」という教材の本質的土台が、育まれたように感じています。

競争の原点は、対自競争に克つこと 

 克己の意味を調べますと、“(意志の力で)自分のためにならない欲望や邪念を抑え、それにうちかつこと”、“意志の力で、自分の衝動・欲望・感情などを抑えること”、“己にうちかつこと”などと出てきます。類似語に、自制(自己抑制)がありました。
 私はシンプルに“己(自分自身)に克つ(勝つ)こと”と表現した上で、その真意を話すようにしています。営業担当者の商談ロールプレイングのコメントで、有名な哲学者の見解を紹介することもあります。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの弟子で、アリストテレスの師にあたるプラトンの言う、『克己は人間がかちとる勝利の中で、もっとも偉大な勝利である』です。

 どのような種類の仕事でもスポーツでも、学びの場、研究の場でも、多くの競争相手がいて、それぞれの世界の規範や規則の中で、その範囲を逸脱することなく正々堂々と腕前を競い合うことが基本原則です。程度の差はあると思いますが、同じ土俵の上で、優劣や順位を競い争うことになります。それは、対他競争の渦中で切磋琢磨することを意味しています。
 私たちの日常は、その対他競争に勝つことが一つの目標ではありますが、相手の腕前を上回る心技体、ノウハウ、計画、道具、準備がなければ目標をクリアすることはできません。何らかのアクシデントによる予期せぬ勝ち負けは存在するでしょうが、結局は、“日々の鍛錬の積み重ねで勝負が決まってしまう”と肚を据えてかかることが大前提だと思います。
 実は、ここが一番難しい、しかし一番のツボなのではないでしょうか。申しあげたいことは、自分自身との闘い、つまり対自競争なのです。何事も、自身の内面的問題に押しつぶされて心が歪んでしまっては、そこでthe ENDでしょう。己との闘いを克服しなければ、対他競争のスタートラインに立ったとしても、その結果は自ずと知れていると思います。私自身の歩んできた道を振り返ってみて、客観的に検証すれば明らかです。結局、行き着くところは克己なのです。そのことに心底気づいてから、克己心をキーワードとして使う頻度がかなり多くなりました。
 日本プロ野球界の至宝野村克也氏は、東京ヤクルトスワローズの監督時代にミーティングで言い続けたことがあります。「敵に勝つより、もっと大事なことを忘れてはいけない。常に自分をレベルアップすることを忘れるな」と。また、こんな言い方をされています。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」(エッセイ133回参照)と。この二つは表裏一体で、自因自果の間柄と解しております。野村氏の本意は、“先ずは対自競争に勝ちなさい”ということではないでしょうか。
 エッセイ142回で取りあげましたが、野村氏と同じ至宝王貞治氏の一本足打法を編み出した故・荒川博巨人軍元コーチも、野球少年に語りかけたイチロー選手も、その本質は対自競争に克つこと、克己心こそが競争の原点であることを強調したいのだ、と理解しております。

 改めて、私の思いから行き着いたお気に入りの公式に再登場願いましょう。
       成果・成長=根気×積み重ね×継続

 成果・成長につながる三つのファクター(根気/積み重ね/継続)も、克己心が土台であって、とどのつまりが対自競争を克服することなのです。その考え方(行動理論)が成果・成長の原点であり、自分自身の体内にしっかりと丈夫な根を張っておくことが大前提の要因ではないでしょうか。年を重ねる毎に、つくづく実感させられているのです。
 現実に周りを見渡して点検すれば、思うような答え(成果・成長)が出なかった時、明らかな失敗が露呈した時、そうなった原因を、“誰か他の人のせいにしてはいないか”、“周りの環境のせいにしてはいないか”、最初から他律要因に求める傾向が気になることがあります。確かに、原因の中には他律要因は存在するでしょう。しかし、失敗の要因を誰かのせいにする、或いは何かのせいにしても始まりません。出口は見えてきません。先ずは自律要因から対処しなければ、手の打ちようも限られてくるのです。
 もう一つ気がかりなことがあります。
 同様に、私たちの周りを見渡せば、“継続・積み重ねなどの真っ当な努力が置き去りにされていませんか!!”という、超がつくほどの強い問題意識です。もう20年近くも前から感じ続けています。
 ある時から、私自身の心をセルフコントロールしながら、時間を要してもコツコツと努力するしかないと決めました。難しいテーマではありますが、時には我慢を強いながらも心の鍛錬を繰り返すことで、悔いの少ない残りの人生にしたいとつくづく思っているのです。
                                                                   (2017.6.7記)

*参照:エッセイ132回「成長への道筋は、いかにして行動の継続を維持し続けるか(2017.4.24)」から

 ここからは、“いかにして行動の継続を維持し続けるか”についての私見になります。
 このテーマも特効薬はありません。一言、根気(或いは、気力)という心の姿勢です。克己心と自己責任意識で持ち続けることです。
 (中略)
 こう考えてきますと、いかにして対自競争を克服するか、にかかってきますね。私の70年間を振り返って、私自身が納得できる対自競争に打ち克つ方程式があるとすれば、以下のような結論になります。
 “目の前のことを一所懸命やりましょう”、“目の前の課題から逃げないで誠実に対処しましょう”という、当たり前の行動姿勢です。一所懸命も誠実も、誰にでもやれることです。そうすれば、結果が何であれ、悔いが残らない可能性が高くなります。鍛練というのも、一所懸命やり続けることであり、誠実に対処し続けることだ、と確信できるのです。
 私は、そんな毎日の地味な基本の積み重ねを、一生涯続けていくことにしております。

 

エッセイ143:指揮者は、演奏家と聴衆への情熱の火つけ役でなければならない

 エッセイ141回では、常に意識している私の行動指針“偉大な教師は心に火をつける”について考えてみました。「19世紀の英国の哲学者・教育学者ウィリアム・アーサー・ワードの至言です」と、過去のつぶやきエッセイでも紹介しております。
 今回、ウィリアム・アーサー・ワード(或いは、ウォード)について改めて調べてみると、出身国も生存時期も別の記述を見つけました。米国ルイジアナ州出身で1921年に生を享け1994年に亡くなられたこと、職業もいくつかの説があって、牧師、著述業、教育家ともいわれているようです。どちらが正しいのかは不明(今回のデータに分がありそう)のままですが、“偉大な教師は心に火をつける”以外のワードの至言にも出会いました。私にとっては、納得できる名言です。機会を改めて取りあげたいと思います。
 その141回の前文では、「教師という表現を、教育担当、人事担当、部下を持つマネジャーなどに置き換えて、人材育成が主要任務の方々の不易の心構え、或いは自戒・自省の行動指針として引用していること」を付け加えました。最近とみに、“心に火をつける”という意味が、組織運営や人材育成においてはもちろん、芸術文化、スポーツの世界など全ての分野のリーダーに共通する重要な要件だと感じております。今回のエッセイでは、そのように感じる事例として“心に火をつける”を考えてみたくなりました。そう考えながら、綾小路きみまろ調の“あれから50年…”ではありませんが、ほぼ50年前のあることを思い出しております。一昨年傘寿を迎えられました、当時の私たちの恩師のピュアな宣言です。

指揮者は、演奏家と聴衆への情熱の火つけ役でなければならない
 1967年(昭和42年)の私は、東京薬科大学薬学部薬学科の3年生でした。部活動は、部員数100名を誇る学内最大会派の東京薬科大学合唱団(以下、東薬合唱団)に所属しておりました。
 月火水木金土の午前は講義、昼食後の30分間は部活のパート練習、午後は講義或いは実験と部活に明け暮れていました。日曜日は何らかの部活の行事がありましたから、年中ほぼ無休の毎日だったことになります。周りからしてみれば、〝馬鹿〟という愛称(?)がつくほどの合唱&合唱団大好き人間の集まりだった、と回想しております。
 その年の11月17日(金)からは、執行部の一員として、良い音楽を探求したいという純な志を前面に押し出しての新体制がスタートしました。率先垂範、試行錯誤、沈思黙考、不言実行、……。不安と手探り状態の中で、思い返して評すれば不器用ながらも生真面目な日々が続きました。それは、100名を超す大所帯の組織運営の難しさにもがき苦しみながらも、一人ひとりが自己責任を果たそうと行動していた姿でした。そんな未熟ながらも一所懸命な私たちは、新指導者をお迎えすることになりました。武蔵野音楽大学大学院卒の声楽家・指揮者で32歳の早川史郎先生です。
 先ず、早川先生の簡単なプロフィールを紹介させて頂きます。当時は、東京都内の女子高の教員でした。その後は、童謡の作曲、幼児音楽教育の道に進まれて、聖徳大学、東洋英和女学院大学などの教授を歴任されました。その間、NHK教育テレビの小学1年生向け番組「わんつー・ドン」において、4年間(1992年~1995年)“リズムの史郎おじさん”として出演されています。また、今年の『寛仁親王牌童謡こどもの歌コンクール』(童謡を歌い継ぐ歴史的コンクール)グランプリ大会では、審査委員長を務められました。(今第31回大会には2,600組が参加)現在、日本童謡協会理事、作曲、執筆など精力的な活動を続けていらっしゃいます。
 今回のエッセイで紹介したいのは、当時の東薬合唱団の機関誌「ハーモニー」への寄稿記事(特集「音楽性・クラブ性」)です。「東薬合唱団の皆様へ」と題した早川先生からのメッセージは、 “初めて聴いた第11回定期演奏会の率直な感想”から始まって、“先生の目指したい合唱音楽の方向性と実現可能性”、“東薬合唱団員への思い”、そして“より優れた合唱団へと発展させるために感じている責任感、期待感”などが、約4,300字も敷き詰められていました。そして、指揮者の役目として、こう結んでいるのです。
   “指揮者は、演奏者と聴衆への情熱の火つけ役でなければならない”…… と。

 その当時、その思いをどれだけ意識していたか、理解できていたのか、私の記憶には残っておりません。ただ、先生と一緒になって、良い音楽を追求しようという気持ちで練習に励んだことは、今でも自信を持って言い切れます。卒業してからは、私の心のどこかに、“情熱の火つけ役…”という文言が焼き付いていたのだと思います。それは、ワードの“… 偉大な教師は心に火をつける”に出会って、私の心が即反応したことで明らかなのです。
 こんなこともありました。翌年(昭和43年)11月8日(金)の第12回定期演奏会の3~4か月前、先生はご自身のスケジュール手帳を差し出して、こう言われました。“11月8日までの練習日程を全て記入してください。11月8日までは、君たちが決めたその日程を最優先にします。…… ”と。第12回定期演奏会は、私たち最上級生はもちろん、先生にとっても1年間の集大成の発表の場であり、正に演奏者(東薬合唱団員)と聴衆(約1,800名動員)への情熱の火つけ役であったかを問われる場なのです。早川先生の“共に”という意思表示に、私たちの心の火はさらに燃え上がったのでした。

 もうお一方、紹介させてください。
 北欧のマエストロと称されるカール・ホグセット(75才)さんです。現役の合唱指揮者、そして声楽家(カウンター・テナー)でもあります。母国ノルウェーで合唱団を創立し、数々の国際コンクールで優勝に導いていらっしゃいます。
 2016年11月20日(日)、27日(日)のNHK・BS1で「奇跡のレッスン 世界の最強コーチと子どもたち『合唱』」がオンエアされました。ホグセットさんが、臨時コーチとして東京都杉並区立杉並和泉学園混声合唱部(中学生)を指導されたドキュメントです。小中一貫校の杉並和泉学園合唱部員は18名(男子3名、女子15名)で、昨年のNHK合唱コンクールでは予選落ちしているレベルの合唱団です。
 1週間の指導でした。その中で、ホグセットさんの発する言葉と接する態度・姿勢から、人材育成の普遍的なあり方を学びました。その土台が、“聞いている人の心を動かす”というホグセットさんの音楽観です。それは、ワードの“偉大な教師は心に火をつける”、早川先生の“指揮者は、演奏者と聴衆への情熱の火つけ役でなければならない”と同義だと直感しました。
 番組で紹介されたホグセットさんの語りを紡いでみましょう。
 先ず、合唱の目的についてです。それは、“観客の心を動かすのがゴール”、“目指すのは、聴いている人の心を動かす歌”であることです。そして、目的実現に至るプロセスとして、“合唱指揮者は火をつける人でなければいけませんエネルギーを送ることで、一人ひとりの心の中に大きな炎が燃え上がるのです”と。さらに“一人ひとりの心が燃え上がったとき、その火が一つの大きな炎となって、合唱として私に返ってくる。その時初めて、音楽が観客の心に届くのです”と続きます。また、今回の指導を通して子供たちに伝えたいことを、シンプルに表現されていました。それは、“音楽のすばらしさ”であり、“歌うことを通して、曲の豊かな響きやメロディ、歌詞の意味を伝えたい。音楽が持つエネルギーや愛を感じて欲しい”ということなのです。

 “心に火をつける”も“情熱の火つけ役”も、そして“聴いている人の心を動かす”も、“自発的やる気を喚起すること”ではないでしょうか。そこに行き着きました。人生経験を積み重ねる毎に、このような考え方が理解できるようになりました。共感できるようになりました。さらに、これらの指針とその真意を、後輩にキチンと問いかける行動を継続していかなければいけません。等身大で良いから、これからもコツコツ積み重ねていきます。
 余談になりますが、50年前の早川先生との出会いから学んだこと、ホグセットさんと18名の中学合唱部員から学んだことが、エッセイ141回の本文執筆を後押ししてくれたと思います。

                                                              (2017.5.28記)

エッセイ142:成長の道筋は、いかにして行動の継続を維持し続けるか

 私の基本的な仕事作法は、PDCAサイクル(別名:マネジメントサイクル)をスパイラルアップすることです。頑固に、ぶれずに実行し続けております。
 その三つ目のステップであるCは、結果とそこに至る道筋を評価・検証することですが、それは二つの原因ついきゅう(追求&追究)という旅なのです。この段階で重要なことは、このプロセスを通して、学習能力、状況判断力や応用力が、徐々に磨き上げられるということを意識して取り組むことです。修破離でいえば、離に連なる破の段階といえましょうか。
 大げさな気もしますが、この追求&追究の旅は人生の縮図を実感させられる旅でもあります。評価結果の成否はともかく、そこに至る過程の中には、必ずと言っていいほど、きれいに割り切れない要因が絡まり合っています。掘り下げるほどに、絡まり方が複雑に見えてきます。理不尽と思われる無理難題、何とも納得のいかないことなど、いくつも浮き彫りになることがあります。パワーハラスメント的な押し付け、責任の所在が不明確、曖昧なチーム運営実態、メンバー間のコミュニケーション不足、取組み意欲の問題、さらには手柄の横取りなど、会社では“これは変だぞ。何かおかしいぞ”ということ、理屈だけでは解決に至らないことが、いくつも出てくるものです。
 だからといって、“止~めた”というわけにも参りません。それでは無責任ですから。逆に、解決に至らなくても、割り切れない要因も全て俎上に乗せて明らかにすることが、次のステップであるA(Action)に好影響を与えてくれます。それ以上に、納得のいかない割り切れない要因が、心を耕す教材になるのです。私の場合、振り返って冷静に反芻してみれば、いくつもの気づきが湧き上がってきます。受け止め方次第でしょうが、C(Check)こそが仕事の腕前や心構えのあり方を磨き上げる教材になると思います。私の場合、そう言い切れるようになりました。
 具体的な事例をご紹介すれば分かり易いでしょうが、その多くは生々しくもありますので控えたいと思います。言えることは、それらの体験が、傾聴・観察の必然性を教えてくれました。自分:相手=49<51の考え方を指し示してくれました。その姿勢を貫くことが、私の解釈する誠実の一つとなりました。だからでしょうか、長い間『誠実』が私の座右銘でした。そして、“誠実に勝る知恵無し”というフレーズを、常に意識するようになったと思います。

 もう一つ、身についた仕事作法から気づいたことがあります。その気づきを6年ほど前に公式として表現しました。職種や職務経験年数を問わず、研修などのOFFJTでのまとめでお話する機会が増えております。その公式を、今回のエッセイで紹介させて頂きます。

成長への道筋は、いかにして行動の継続を維持し続けるか

 紹介したい公式は、結局、私の経験則から行き着いたものです。しかし、オリジナルといえるものではありません。どなたもがご存知のキーワードを掛け合わせたものです。

     成果・成長 = 根気 × 積み重ね × 継続

 “成果や成長に結びつく秘訣は何だろうか?”、“目指している目標を達成するコツは何か?”…。
 “教育とは何か?”と同じように、教育担当に従事して以来、いつも頭から離れない私自身への問いかけです。私の独り合点かもしれませんが、“成功するまでやり続けること”というのが、現時点での結論となります。この回答がきっかけとなって、『成果・成長=根気×積み重ね×継続』が生まれたのでした。

 つぶやきエッセイで、何度も繰り返し強調した行動指針があります。
「継続は力なり」、「積み重ねは力なり」です。それも、継続と積み重ねの二つ要因は、別々にではなく“共に”の関係ですよ、と申し上げております。
 長い仕事人生において、新しい職種や職務に配置転換しなければならないことが出てきます。また、経営環境の激変によって、仕事のあり方が抜本的に変わることだってあります。これからの時代、今まで以上の速度と頻度で、誰に対しても起こり得ることでしょう。
 今まで経験したことのない仕事に従事するとなれば、新たな職務遂行能力を身につけなければ組織全体の機能が低下してしまいます。知識・技能だけではなく、仕事の進め方やツールなどのシステム的側面も含まれます。意識しなくても自然と出来るようになるまで、仕事を通して訓練し続けるしかありません。何十回、何百回と繰り返し実践して、無意識に心身が動くようになるまで鍛錬するしかないのです。
 鍛練とは、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」(「五輪書」宮本武蔵著より)という表現の通り、千日の訓練で基本的な技が身につき、万日の訓練でその技が練りあげられて名人の域に達する、ということです。千日は三年間、万日は三十年間ですから、苦しい訓練に耐えながら、繰り返し積み上げる努力なしには為しえません。つまり、新たな職務遂行能力やセルフコントロール(自己統制)できる力が身につくまでには、かなりの日数と訓練が必要だということです。頭で思い描くほど容易くはないのです。成果を上げ続ける、考えたレベルまでの成長を果たすには、“鍛錬しか道はない”と腹を括り、腰を据えて努力するしかありません。鍛錬というのは、結局、毎日の地味な基本の積み重ねなのです。そして、その積み重ねは、行動の継続があって成り立つことから、『積み重ね×継続』ということになるのです。スピード、即戦力、効率性が優先される時代には、気にかけて頂けない考え方かもしれませんが……。
 一方、継続といっても、急にハードルを高めて、通常の2倍も3倍も努力し続けることは簡単ではありません。ちょっと気が緩めば、“3日坊主でお手上げ”が関の山でしょう。そこで、自分の限界のせいぜい1.1~1.2倍程度の継続努力をお奨めします。さらに、3日坊主も陽転思考で乗り切るのです。“3日坊主、10回繰り返すと30日”というように。
 日本プロ野球界の至宝である王貞治氏の一本足打法を編み出した故・荒川博巨人軍元コーチは、このように表現されています。「毎日やることが大切。努力というのは毎日の積み重ね。だから、決して休んではいけない」と。
 イチロー選手は、野球少年たちに対して、こう語りかけているようです。「人の2倍とか3倍も頑張るなんてできない。だから、自分の中でちょっとだけ頑張る、というのを重ねて欲しい」と。自らのMBLでの実績を振り返っての実感だそうです。

 ここからは、“いかにして行動の継続を維持し続けるか”についての私見になります。
 このテーマも特効薬はありません。一言、根気(或いは、気力)という心の姿勢です。克己心と自己責任意識で持ち続けることです。
 根気というと、忍耐とか我慢のイメージがつきまといます。私の年代であれば厭わないかもしれませんが、今の時代では通用しそうにありません。そこで着目したいのが、志と目標(ビジョン)を明らかにして、誰のためでもない自分のために対処することです。私の場合、その過程で、“やりたい”、“やってみたい”という意欲へと昇華していきました。そして、いつの日からか、この公式(成果・成長 = 根気 × 積み重ね × 継続)に辿り着いたのです。
 もう一つ、これを忘れてはいけません。根気から逃げ出さないための対処法です。これも私の経験則になりますが、“一日一スモール・サクセス・ストーリー(ほんの小さな成功例)”の積み重ねが有益だと思います。一日一善を積み重ねるのです。数年、いや場合によっては、もっと長いスパンでの小さな成功例の積み重ねこそが、成長の一番の決め手ではないでしょうか。

 こう考えてきますと、いかにして対自競争を克服するか、にかかってきますね。私の70年間を振り返って、私自身が納得できる対自競争に打ち克つ方程式があるとすれば、以下のような結論になります。
 “目の前のことを一所懸命やりましょう”、“目の前の課題から逃げないで誠実に対処しましょう”という、当たり前の行動姿勢です。一所懸命も誠実も、誰にでもやれることです。そうすれば、結果が何であれ、悔いが残らない可能性が高くなります。鍛練というのも、一所懸命やり続けることであり、誠実に対処し続けることだ、と確信できるのです。
 私は、そんな毎日の地味な基本の積み重ねを、一生涯続けていくことにしております

                                                                      (2017.4.24記)

エッセイ141:私が心がけているヤル気の点火剤は?

 今の時代の現役教育担当から、どれだけ共感して頂けるのだろうか? 全く計り知れませんが、出会ってから意識し続けている行動指針があります。それは、19世紀の英国の哲学者・教育学者ウィリアム・アーサー・ワードの至言です。
 
      凡庸な教師はただしゃべる。
        良い教師は説明する。
          優れた教師は自ら示す。
            偉大な教師は心に火をつける。

 教師という表現を、教育担当、人事担当、部下を持つマネジャーなどに置き換えて、人材育成が主要任務の方々の不易の心構え、或いは自戒・自省の行動指針として引用しております。
「心に火をつける」とは、“やる気を引き出すこと”。正に、教育の語源であるEDUCOのことです。さらに、その火は実行動へと受け継がれなければ元の木阿弥となります。意識と行動をセットで変革に導いて、はじめて“火をつけた”と言えましょう。私は、そのように解釈しております。
 人の心に火をつけるためには、力のある言葉を学びとり、その言葉の使い方を吟味し、心に届く眼差しと雰囲気をもって、心に響く話し方で、全力投球することを忘れてはいけません。問いかけ続けること、問い質し続けることを忘れてはいけない、と心に刻んでおります。
 今回のエッセイは、心に火をつける剤には何があるのか、一緒に考えてみたいと思います。

私が心がけているヤル気の点火剤は?

 エッセイ126回(日常の教育機会の指導ポイント)の復習からスタートしましょう。
 その指導ポイントの一つ「部下や受講者のやる気・好奇心・感受性を高めて、想像力を養い発揮させる」は、全4項目の中でもハードルの高いテーマです。しかし、避けて通ることの許されない根源的なテーマなのです。難しい課題ではありますが、そう意識しながら、根気強く働きかけていけば、徐々にやる気や感受性が高まっていくことを、何度か体験してきました。その体験を信じて働きかけていけば、自ら学ぶことを楽しんでくれる様子が、雰囲気として感じられるようになります。“勉強が楽しくなりました”、“生まれて初めて学ぶことが好きになりました”と、照れながら発する人も出てくるのです。
 実際に指導する際のコツは、小さな努力をコツコツ継続させて、スモールサクセスストーリーを積み上げさせることに尽きると思います。この場合、仕事の進め方の土台として、“目標によるマネジメント”の定着が前提となりますが、この件は別の機会に取りあげたいと思います。
 一方、現実はどうかと言えば、思うような成果に結びつかないことや失敗の方が、はるかに多いのが実態ではないでしょうか。その比率(成功率<失敗率)から察すれば、日々の失敗から学ばせることはさらに重要なのです。そして、“毎日の小さな努力を、何年も何十年も積み重ねるしか道はないと覚悟させること”は、もっと大切だと思えてきます。経験の浅い段階では何も見えてきませんが、辛抱強く行動させ続けていけば、的確な問題意識が拡がっていく感覚が芽生えてくるものです。やる気はもとより、好奇心も感受性も、そして想像力も高まっていくのです。成長度合いを確認し合いながら、より積極的な行動姿勢を引き出し、継続行動を促して粘り強く育んでいくことではないでしょうか。
 エッセイ141のスタートとして、心に火をつける上での基本的な考え方を申しあげました。ここからは、今回のテーマである心がけている点火剤の正体について、話を進めたいと思います。

 先ず、最初に明言しておきたいことがあります。人材育成を任務とする方々の行動姿勢についてです。
 何が点火剤の正体であるかは、“一人ひとりが試行錯誤を繰り返して、自力で考えて見定めよ”ということです。“本気になって究明しなさい”と、ハッキリ申しあげておきましょう。正体を意思決定したなら、間髪入れずに当たり前に実行することです。描いた目標のレベルまで、満足できるレベルまで、克己心で追求し続けるだけです。言葉にすれば簡単そうに思えるかもしれませんが、相当量の努力と覚悟が必要となります。自らの手で掴み取るしかありませんから、実践行動の積み重ねが不可欠です。正体が何であるかを知ることは簡単であっても、スキルに辿り着く時間距離はオリンピック並みと心得てください。だから、“克己心で… ”と付け加えたのです。
 ここからは、私が心がけている点火剤の正体をつぶやいてみましょう。

 企業内教育に従事する教育担当者にとって、社員との信頼関係なくして任務を果たすことは不可能でしょう。友好的な関係を築くことはそんなに難しくはありませんが、信頼関係は容易く構築できるものではありません。確固たる指針と信念無しには、本物の信頼関係には至らないと思います。その信頼関係樹立のために、私は五つの行動指針を掲げております。
 「⓵目の前の課題に、自ら進んで取り組むこと(率先垂範)」、「②真剣に、一所懸命立ち向かうこと」、「③最善を尽くすこと」、「④先ず受け入れてみること(肯定的に、前向きに)」、そして「⑤誠実に全力投球すること」です。
 五つ目の「誠実に全力投球すること」は、私が心がけている一番の行動指針です。これだけは“手を抜かない”と決めた指針なのです。納得するレベルに行き着くまでには、何度も苦い経験を味わいました。ある時から、誰が何と言おうと「誠実に全力投球すること」と、自分の心に誓いました。一所懸命働きかけていると、真剣に耳を傾ける人の存在を感じるようになりました。ぶれずに全力投球し続けていると、表情や姿勢からやる気を感知できるようになります。私が真剣であれば、私の真剣さが伝わる感覚が認識できるようになりました。

 「井上さん、今日も全力投球でしたね。……」
 20年以上前になりますが、この一言は私の背中を後押ししてくれました。3日間の新任マネジャー研修の反省会において、系列会社のある教育担当が発した感想です。それ以来、全力投球という評価は、私にとっての最高の励みの言葉になりました。そのような評価を支えに、ここまで人財育成の志事を続けられていると思います。さらに、実現が難しくても全力投球で対処しさえすれば、年齢に関係なく、まだまだこの志事が続けていけると思えるのです。
 もう少し掘り下げて、点火剤の正体を考えてみたいと思います。紹介した私の行動指針を支えてくれる心的側面の存在です。それは、「愛情」、「情熱」、「本気」のトライアングルです。「熱意」、「誠意」、「根気」と言い換えても良いでしょう。五つの行動指針とは、車の両輪の関係ですね。これらとの関わりが成否の鍵を握っている思います。
 一方、状況にもよりますが、心的側面はストレス源へと変化することもあります。教育担当にとって、常に抱える心の重しになることが考えられるのです。それは、教育の成果が表れるまでには、かなりの時間を要するところにあります。研修を実施した翌日から、成果が表れるような簡単な問題ではありません。5年、10年、20年と経験を積み重ねながら、気がついたら積み重ねた教育の効果が出てくるものだと思います。ですから、ストレスを感じたならば、こんな視点で打っちゃってください。
  「効果が出ないからと止めてしまっては、未来永劫ダメになる。教育はそんな簡単に成果が出るものではないと。

 私の目標の一つは、“人間的魅力をもっと高めて、影響力を発揮できるようになることです。今回のテーマである心がけている点火剤の正体は、私に合った目標達成の行動指針であることが再確認できました。繰り返して申しあげます。人材育成が任務の皆さんには、メンバーの心に火をつけるオリジナル点火剤を、日々意識して追求して頂きたいと思います。
                                                                         (2017.4.5記)

エッセイ140:「考えるとは?」を、行為レベルで考える

 平成29年3月卒者の就職活動(以下、就活)が本番の時期になりました。
 私が新卒採用を担当するようになって、かれこれ31年になりましょうか。16年前からは薬学生がメインとなりました。初めて薬学生と接した時、多くの薬学生の就活実態に大きな衝撃を受けたことが思い出されます。“これが薬学生の就活なんだ!?”、“これで良いのだろうか?”、“これで通用するの?”というような、意識の低い緊張感が希薄と受け取られても致し方のない実態に、ただただ唖然としたのでした。その光景が、今でも頭から消えることはありません。
 就職先の方向性を訊くと、病院の比率が高かったですね。調剤薬局が続きます。さらに、その理由を問うと、採用担当者として耳を傾けたくなるような返答が、(余りにも)少なかったのです。それも、10人10色ではなく、概ね同じようなグレー系の色合いでした。
薬剤師の任務をどう捉えているのか知りたくて、“薬剤師法第一条には、何が書かれてありますか?”と確認をします。残念ながら、満足な回答が得られないのです。薬剤師法第一条のタイトルさえ答えられない方がいました。怪訝そうな視線で、その場を立ち去る学生もいました。現在でも大差ありません。何十年間も続いている薬剤師超売り手市場が、問題意識の希薄な視野狭窄ステレオタイプの薬学生を、自立心の乏しい受身タイプの薬学生を量産してしまったように思います。
 採用側にも問題がありそうです。求職学生一人ひとりが自社の求める人材像にマッチしているか、そのことを採用担当者がキチンと評価してしているのだろうか、という疑問です。さらに、人間的側面や個性、将来の可能性など、どれだけ多面的に観察評価して内定を差しあげているのだろうか、…… 疑問が膨らみます。薬剤師不足であることを理由に、人物評価は二の次で薬剤師の卵に内定手形を乱発している姿勢に対する私の問題意識は、変わることなく失せないのです。
 薬学部で学んだ方々の職能は、想像以上に間口が広くバラエティーに富んでいる、と私は考えています。そこで、“将来何をやりたいのか”、“どのような人間を目指したいのか”、“学んだ学問で何を見出したいのか”、“どのような仕事で社会と共生したいのか”、“学んだ学問を活かしてどのようなことで社会と関わっていきたいのか”、そして“どのような薬剤師になりたいのか”、などを明らかにすることが就活の出発点、と薬学生には長いこと問いかけております。しかし、そんな私の問いかけに対する反応は、ますます薄くなっているように感じます。一方、その程度の就活でも、他の職種に比べて職を得ることに困ることがありません。そんな風潮を横眼で見ながら、企業研究の基本的なあり方に対する疑問は、相変わらず膨らむ一方なのです。最近では、他人事のように眺めるしかできない自分に対しても、自虐的に腹が立ってしまいます。
 しかし、私は諦めずにアドバイスしたいと思います。
 『薬学生よ、もっともっと己の心身全体を使って、これから何十年も続く自分の将来を真剣に考えなさい。薬剤師の職能は国民から負託された誇るべき任務であることを覚悟し、自分自身の生き方と人生観を明確にすることから逃げないで、自己責任意識で意思決定しなさい』と叫びたいのです。薬学を修めた者の職能の巾を狭めないで、視野を拡げいくつもの着眼点を動員して考え、自分の将来を決めて欲しいのです
 そんな思いを募らせながら、“考えるとはどうすることなのか?”を啓発的に綴ってみたいと思います。エッセイ第93回(2015.5.30記)を、人材育成という視点で教育担当者向けに書き直してみました。

「考えるとは?」を、行為レベルで考える

 何かにつけて便利さが優先される世の中になりました。
 コンビニエンスストアでは、そのお店の取扱商品であれば1年365日24時間購買することが出来ます。いつでも入手可能ですから、生活者には買い置きの必要性が薄くなります。何らかの事情でも無い限り、必要になった段階で買いに走れば事足りるでしょう。事前にあれこれ考えなくても、日常生活に支障をきたすことも少なくなりつつあるのです。流通企業にとって、消費者ニーズを先取りした利便性追求競争は、今後も生き残り策の一環として激化していくことでしょう。
 そのような中での私の(老婆心的な)心配事は、便利さが進展すればするほど、全身を使って考える必要性が減っていくことです。別の言い方をすれば、思考停止が徐々に進んでいきはしまいかという危惧のようなものです。それ以上に恐ろしいのは、そのことに気づかないばかりか、日常生活における問題意識が低下してしまうことではないかという気もします。
 もう一つは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」現象が、相も変わらず気になることがあるのです。災害にしろ、不祥事にしろ、突発的な事故にしろ、取り返しのつかないような経験を教訓として、備えを疎かにしてはいけないことへの格言なのでしょうが、その出来事がいつの間にか忘れ去られてしまうのも実状なのです。「人の噂も七十五日」の通り、特に他人事であれば、時の経過とともに多くの出来事は消え去っていくのです。大多数の生活者がそうであるように、日常生活で精一杯の状況であればあるほど、その傾向は無理からぬことと思いながらも、「喉元過ぎれば…」のような事態に気づいたなら、私自身に対する自戒として、こう言い聞かせると決めています。
 そのような傾向は誰もが持ち合わせている人間の必然的心理現象と認めた上で、“喉元過ぎても熱さを忘れない。考え続けるべし”と。
 
 ここからは、前途有為な若人に物申したい、特に薬学生に物申したいと思います。日々の生活では、些細なことでも“何か変だ?”と思うことがありますね。そんな時に、ちょっと立ち止まって想像の羽を広げることは無駄なのでしょうか!感受性も、好奇心も、問題意識も、無益なのでしょうか!私には関係ないからと、面倒だからと、その場の雰囲気に流されて向き合うことを止めて良いのでしょうか!思考停止に近い状態で、今後の人生を歩んで良いのでしょうか!……
 私は思います。考えるという行為こそが、将来の生きがいに辿り着くプラットフォームだと。そこで、現状実態に気落ちしながらも、考える行為の啓発目的で、“考える”ということを「○考」という形で表現してみました。

      足考:行動することは、足で考えること。
      手考:メモすることは、手で考えること。
      口考:言葉に感情を添えて表わすことは、口で考えること。
      目考:観察することは、目を凝らして考えること
      頭考:感じること、疑問に思うこと、興味を抱くこと。
               そして、掘り下げること、組み立てること、深化させることは、頭を使って考えること、脳で考えること。
      耳考:傾聴することは、耳を研ぎ澄まして考えること。
      指考:温もりや肌触りを感じることは、指先を使って考えること。
      顔考:思いや情緒を表情に表すことは、顔全体で考えること。
      心考:相手の気持ちを想像することは、心で寄り添って考えること。
      書考:書き表すことは、言葉に魂と思いを添えて考えること。

 こうやって視点を変えてまとめ直してみれば、考えるという行為の巾の広さと奥行きが見えてきます。これらの「○考」は全て考える行為を表しています。これらの「○考」を認識して、日々全身で考えるという行為を実行することは、脳活性化の自己啓発になります。視野拡大につながります。ちょっと意識してその気になれば、「○考」の機会は身の周りに数多く存在します。ステレオタイプが巾を利かせている昨今、考えることの意義、考える行為の実例を掘り下げながら、問題意識を高める行為の実践を奨励し続けたいと思います。

 最後にひと言。
 本文の冒頭で申しあげた便利さを、全て否定している訳ではありません。決して、全てを悪者扱いしているのでもありません。大切なことは、少しでも納得のいく意思決定を可能にするには、全身を使って考えることではないか、ということを問いかけたいのです。考えないまま借用で済ますことは、責任を放棄したことになります。考えることの躾化は、一生涯の修養道だと思います。
 人事教育担当として31年間、ほとんど毎年のように新卒新入社員の育成に直接関わってきました。学歴は様々です。16年前からは、ドラッグストアや調剤薬局での新入社員研修に携わるようになりました。それ以来、つくづく感じていることがあります。それは、議論が弾まない、という実感です。課題解決を目的としたグループ討議では、議論内容の深まりが期待できなくなりつつあるのです。考える必要性を感じなくなったのか、考える余裕がないのか、考える行為が滅びつつあるのか、…… 。何故そうなのか、ずっと考えさせられています。そんな私のトラウマが、今回のエッセイを書かせたのかもしれません。
                                                            (2017.3.26記)

エッセイ139:「備えよ常に」&「準備万端整える」

 30年近くも続けている私の行動指針の一つが、“備えよ常に”という理念の下で、“準備万端整えること”を何が何でも実践することです。研修であれ講演・講話であれ、依頼されて受諾した教育機会は、可能な限り予定日の一ヶ月前までには実施可能の状況にすることを、イの一番の指針と決めて守り続けてきました。この指針は、未熟の度合いが高いほど、時間をかけて取り組まなければならないルーティン的課題だと思い続けています。
 そんな仕事作法を堅持しながら、一方でつくづく感じていることがあります。それは、仕事であれ、学びであれ、“準備不足が横行していませんか!”という皮膚感覚です。準備内容の貧困化と言っても過言ではありません。
 かなり以前のある時から、“想定外という言い訳は恥かしいこと”と自分自身に言い聞かせて、どのような事態が起きたとしても最低限の任務を果たすことができる作法を特定し、その作法を当り前に実践し維持し続けている人こそが、本物のプロフェッションなのだと思うようになりました。その不易の日常的作法の一つが、何度もしつこく言及している“備えよ常に”と“準備万端整える”なのです。最近、その重要性を後押ししてくれる方に出会いました。
 つぶやきエッセイで何度も取りあげました「備えよ常に」と「準備万端整える」を、改めて考えてみたいと思います。

「備えよ常に」&「準備万端整える」

 上野由岐子投手(以下、上野さん)をご存知でしょうか。
 日本女子ソフトボール界のレジェンドであり、今でも至宝と評されるほどの現役アスリートです。2004年アテネ五輪銅メダル、2008年北京五輪金メダル獲得の立役者である上野さんが、岩手県出身の二刀流大谷翔平選手(以下大谷君)との速球王対談を行ないました。一昨年12月下旬、朝日新聞紙上にその対談内容が掲載されました。上野さんの試合に臨む心がけから、目標達成のためには、いかに準備が重要であるのかを掬い取ることができたのです。そして強く申しあげたいこと、シッカリ気づいて頂きたいことは、それは名声あるアスリートだから為し得ることなのではなく、未熟で力不足の我々こそが、その何十倍もの準備を積み重ねることを示唆しているということなのです。

 大谷君の「大事な試合の前日にすることはありますか?」という問いかけに対して、上野さんはこう回答していらっしゃいます。
 「相手に関することやコンディショニング、道具とか準備にはきりがなくて、無駄のないものだと思っています。大事な大会になればなるほど相手より一つでも多く準備した者勝ち、という気持ちでいます
 さらに、「北京の時、ソフトボールが五輪競技として最後の大会だったので、これでソフトボール人生が終わってもいい、という思いでした。これでやって負けたら仕方ない、と思える準備ができたと自分は思っています。だから、結果を出すことができた。ですから、もう1回五輪に向かうとなると、またあの準備をするのかと思うとちょっと踏み切れないですね。それくらいすべてをかけて臨んだ
 また、「私は自分の目標が達成できるまで毎日、日記をつけていました。そうすることでやるべきことが見えてきた」、「中学の時からそこそこボールが速かったので、捕手の構えたところに投げないと取れないというケースが多かったんです。捕手が親指を突き指とかしていたので。その子を思って投げていたので、コントロールはつきました」とも答えていました。

 上野さんの一言一言から、言い続けてきた「備えよ常に」、実践し続けてきた「準備万端整える」に、希望のような明かりが灯った気がしております。天賦の才の持ち主が、想像もつかないほどの努力(準備)を積み重ねているのです。私のような名もない人間こそ、“準備万端整えることができなくなったなら現職を辞する”くらいの矜持を持って、日々の課題と向き合いたいと思います。

 折角の機会です。改めて「備えよ常に」と「準備万端整える」を復習してみたいと思います。
 日本ボーイスカウト愛知連盟のホームページによれば、「備えよ常に」は、世界各国のボーイスカウトの共通のモットーだそうです。イザという時に備えて、どのようなことに出会っても、必ずやり通せるように、日頃からいろいろと準備しておく、という意味なのです。言い方を変えれば、どんなことにも直ぐに応じられる心構え、身構えを持って、“いつでも準備ができているぞ”という態勢の証明でもあるそうです。
 仕事でいえば、やりがいのある仕事を任された時、それをやり遂げられる能力開発を、日頃からコツコツやっておこう。自己啓発による積み重ねを怠らず、日々、心技体を磨き上げておこう、ということになりますね。
 「準備万端整える」とは、事前準備を万端整えるということです。「万端」の「万」は、数の多いことを言いますが、「端」は単なる“端っこ”ではなく、“時局多端”とも言うように“キチンとやらなければならないこと”を指します。その心は、数の多さではなく、やるべきこと、やらなければならないことを、百パーセント準備して事に臨むことが“勝利の唯一の方程式”だ、と言うことになりそうです。

 もう一つ、備えにしろ、準備にしろ、その具体的内容を考える際の大前提も重要です。私が意識している以下の三つの前提を、皆さん方には是非考え頂きたいと思います。

 【前提1】最悪の事態(結果、プロセスなど)を想定しておく。
 【前提2】“行動や結果の責任は自分でとる”、“自分のことは自分で守る”と肚をくくる。
 【前提3】“平時でも、有事においても、自分の能力以上のことはできない”と自覚する。

 三つの前提は、今まで受講した自己啓発研修やテレビ番組などから教えて頂いたことです。
 前提1は、私が企画し運営する教育機会では、ほとんどの場合に実践している指針になります。何事においても、不測の事態や失敗は起こり得ることですから、最悪と判断した事態を想定して備えることが、イザという時に対処できる度合いが高まると考えております。タガの緩んだ付け焼刃の備えでは、想定外の場合には役に立たないことを、何度も経験し見てきました。
 前提2は、自己責任意識を意味します。自分の将来は自力で意思決定する、行動結果に対しては責任をとる、ということです。備えに対する心構えが他人任せでは、有事の際に何も対応できないことは自明の理です。自己責任意識が根底にあるからこそ、万全の準備が実現可能になります。
 さらに、イザという時には、即断即決しなければ間に合いません。そこで前提3に行き着きます。
 能力開発、自己啓発の重要性が、何故問われるのでしょうか。理由はいくつかあると思いますが、“日常においても、有事においても、自分の能力以上のことはできない”という経験則が前提にあるからではないでしょうか。現社会で生きていくからには、“将来への備えを自力で行うことは当たり前である”と、自覚しておかなければいけないでしょう。“将来に対する備えは義務である”という気概で、日々能力開発に励むことです。生涯学習の所以は、そのようなところにあるのかも知れません。
 以上の三つの前提が全てとは思いません。自然災害が起きるたびに叫ばれる対応への警笛、失敗や不祥事が表面化した時に言及される防止対策の必要性 ……。難題ではありますが、ボーイスカウトのモットーに立ち返って見直さなければ、根本解決に至らないと思うのです。

 最後に、何度でも申しあげます。
 「備えよ常に」も「準備万端整える」も、仕事だけに限ったことではなく、日常生活においても相通じる躾化すべき不易の作法だと。
 そして、備えは予防医療のプラットフォームでもあるのです。
                                                                     (2017.3.17記)

エッセイ137:いのうえ塾のオンリーワン「ホームルーム」その2:WHAT

 前回のエッセイでは、“何故(WHY)、毎日ホームルーム(以下、HR)をやるのか?”というHRの目的(意図)を言及しました。今回は、“HRでは何(WHAT)をやるのか?”を、いくつかの研修事例から紹介したいと思います。

いのうえ塾のオンリーワン「ホームルーム」その2:WHAT 
 研修のHRで取りあげる課題やテーマは、対象者の仕事経験度、職種によって変わってきます。また、毎年行う定例的研修(例えば、新入社員研修、薬局長研修など)においても、その時々の経営環境実態によってリアルタイムに変えるように気を遣っています。さらに、取りあげる一つひとつについて、必ず意図する目的(WHY)と向き合ってもらうように方向付けします。一人ひとりが考える、考えをグループメンバーと議論する、議論を通して掘り下げたり組み立てる、それらの過程を通して、自発的やる気を引き出したいのです。
 今回は、直近の研修からの実例を取りあげてみましょう。一つ目は、3週間(15日間)の新入社員導入研修から、私が担当します第1週(5日間)と第3週(5日間)の課題・テーマの紹介です。もう一つは、私が企画し運営するコミュニケーション力強化基礎研修(全5日間)のHRです。

⦿新入社員導入研修
 ★初 日:教わるとは?/頭の中の枠?/初日を終えての感想/毎日の2分間スピーチのあり方、進め方の基本ルール
 *毎日実施すること:全員の2分間スピーチ/昨日の振り返り/本日のスケジュール確認
 ☆2日目:毎日HRを実施することの意味/行動理論とは、何故行動理論なのか?/教育とは?
 ★3日目:何故、毎日2分間スピーチをやるのか?/顧客に受け容れて頂ける挨拶のあり方/自分の頭で考えるということは
 ☆4日目:ホスピタリティの意味/マナーとは、常識はあってもマナーを持ち合わせていない人/「きけわだつみのこえ」をご存知ですか、「出陣学徒壮行の地」記念碑をご存知ですか?
 ★5日目:我が社の企業理念理解度テスト/信念を持つことの意味は
 ☆11日目:自分の身近なところに目標を置こう/スーツを売るのが私の転職/愛の反対は?
 ★12日目:最初から上手な人はいません/5Sとは、ハインリッヒの法則/問題とは、問題解決の基本手順、問題解決の思考プロセス/挨拶用語理解度テスト
 ☆13日目:「誓いの碑」をご存知ですか?/はがきの二大効用/正しい言葉遣い理解度テスト
 ★14日目:勉強の目的は何か(何のために勉強するのか)?/コミュニケーションの本質
 ☆最終日:自己啓発とは/1年半後のあなたへの六つのメッセージ/自分の感受性くらい

⦿コミュニケーション力強化基礎研修
 ◆初 日:教わるとは?/頭を柔らかくするパズル/初日を終えての感想/毎日の2分間スピーチのあり方、進め方の基本ルール
 *毎日実施すること:全員の2分間スピーチ/昨日の振り返り/本日のスケジュール確認
 ◇2日目:毎日HRを実施することの意味/勉強の目的は何か?(何のために勉強するのか)/修破離/問題解決の思考プロセス
 ◆3日目:成長・成果の三要素とその掛け算の意味/行動理論とは、何故行動理論なのか?
 ◇4日目:信頼のコミュニケーションの1丁目1番地は/情熱と行動/Boys’ be ambitiousの本意は何か?/就職活動目前の薬学生に言っておきたいこと
 ◆5日目:調剤過誤防止の基本、5S、ハインリッヒの法則/謙虚×真摯/知っていますか?(きけわだつみのこえ、学徒出陣、漂流ポストなど)

 どう感じられましたか。教育担当者が集まっての研究講義、或いは共同研究の最適テーマだと思うのです。切磋琢磨こそが有効な成長手段ではないでしょうか。
                                                                   (2017.2.23記)

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